海と山の近くに暮らしはじめて、それから映画をつくるようになり、確かに散歩をする時間が増えた。それも映画の制作が始まったらただただ空を見上げる行動が増えると最近気づいた。青空も雲だらけも雨の日もただ見ている。これはたぶん暇なんだと思う。
今は山桜がぽつぽつと薄い色をして海にも薄い緑のような青が戻ってきた。私は散歩のついでに魚を求めて漁港近くの市場へ通う。そこは小さな市場でありながら、前夜に海が荒れていなければ季節の魚が沢山あがっている。今しがた海から陸へ連れてこられた魚たちはまだキラキラした光を保っていて感動的なのだが、時には怖い顔つきの長い胴体なやつらがギラリとしている。怖い。料理人でもない素人がポツンと魚を眺めている姿を想像して欲しい。邪魔になっていなければいいけれど。そして帰りは必ず港の辺りを眺めるのだが、そこでは水鳥がダイブして魚を採る技を魅せてくれたり、小魚の集団が私の目の前で団体活動をしたりで楽しい。
私は小学生の頃に父親から二眼カメラを貰い写真を撮り始めた。子供の頃に暮らしていた町でも家から自転車でちょっと行けば海だった。海によくカメラを持って行って遊びに行った。台風が去った朝、港のコンクリートの隅の方に海面が見えないほどのゴミが浮かんでいる事があった。それは生活の中で見た事のある商品パッケージが多かった。家にある食べ物のパックや洗剤のボトルなどが海に浮いているのが変だった。それが自分の目の前に見える美しい景色の中で一番「変」だったのだろう。写真に撮った。時代は昭和。
平成が終わろうとしていた時、海に捨てられたプラステックが大問題だと判明した。インドネシアのバリ・クタビーチではゴミがサーフィンし、タイでは河川と海のくっついてるところがゴミで繋がっていた。その映像は世界的なニュースになった。それだけでなくミクロサイズのプラステックが海の生き物たちを襲っているというところまで科学がたどり着いた。この解明が経済的で産業優先の理由などを顕にした。いよいよ遅い気付きだ。ウミガメの鼻にストローが刺さっている映像は陸のコンクリートで暮らす人々にも衝撃で、瞬く間にSNSを駆け抜け有名な画となった。
とにかく人々は驚いたのだ。そして海に浮遊するゴミを集める機材を開発したサーファーたちの記事も広がった。アウトドア衣料メーカーのパタゴニアは衣料の化繊製品の洗濯から海に流れるプラの現状を研究している。私はインターネットにて東京農工大学農学研究院 高田秀重さんの研究レポートを読んだ。それは外国の話しではない。そこには私が日々散歩している海のプラ数値があった。どんどん自分の生活に問題が近づいている。高田先生は「海がプラスティックのスープになっている」と書かれてあった。
私は空を眺める時間がたっぷりある人だから、偶然にもこういう事に気付きやすく忘れにくい。現在の人々は大人も子供も何故か忙しい。スマホでハートマークをつけたり、リツィートしたりはパッパッとできるが、すぐに次のニュースに上書きされて流れて行ってしまう。スーパの袋をやめる程度ではないんじゃないか。要注意だと、万人の未来の人が言ってる気がする。
先日ご縁を頂き、メソポタミア時代の牛形をした石を見た。手で触っている間にいろんな事が頭を巡った。
なんていうか、こう、人類って退化しているという見解にうすうす賛成だ。