自然の中に入っておもうこと

2016年後半は久しぶりに仕事が慌ただしくがあったので、身体はほんとうに移動が多かった。関西、四国、沖縄、外国..。新幹線や飛行機に乗っている時間が多かった。移動の中、頭の中はいつもぼんやりと違うことを考えていた。歳をとって自分勝手になっているのがあからさまに理解できた。

報道されるNEWSは劇映画を超えるかのような内容が続き、NETではそれについて増々批評が加速する。私は自分のその情報源となるpadを鞄に忍ばせていつも移動している。ホテルにいてもテレビも新聞にも一切接触しない。だけどいいも悪いも瞬時にNEWSは知っている方だと思う。まるで情報おたくかというほど目にしている。そういえば…、夏にやっていたリオオリンピックについては全く知らない。さすがに観ていない。過剰な書き方をした。スポーツに関しては何を聞かれても一切会話にも入れない。

では仕事中は、さっきまで読んでいたNEWSを考えながら歩いているのか?以外にそうでもない。一人とぼとぼと自然の中を歩く。日本の景色は美しく、奥深く、時間をかけても探したい顔をたくさん持っているので自分が救われる。邪魔なよこしまな考えはすぐに消えてしまう。偶然そこにいる瞬間、すっと太陽からの明かりがさしこみ、まるで世界が喜んでくれているかのように輝き放つ時がある。自然のもつ大きな力にすごく驚く。黙っていても自然と会話してるような幸せな気分になる。こういう時こそ、ゆっくり自然を楽しんで撮ってられる1人撮影が最高だと思う。逆に焦って下心むき出しで欲しい画をガサガサ探って歩いている時には、まず素敵な時間は訪れない。世はよくできているのだと思う。まるで自然に試されているよう。

東大寺の二月堂坂からみえる蠟梅を今年もみることができた。6年ぐらいこの木を眺めている。戒壇院の下にある紅葉もそう。何年も眺められる事を嬉しく思う。奈良の巨匠カメラマン・入江泰吉氏の写真についての有名な出来事がある。入江アングルといわれる数々の有名なシーンは、月日をかけて探したアングルなのだろうと思っていたけれども実は何年どころではなかった。30年を超えるアングルだった。30数年をかけて観てきたアングルなのだそうだ。美しい。

自然をコントロールしようと思うこと自体が馬鹿げた事だ。しかし仕事となるとそうはいかないものらしい。例えば天候が悪くカメラを回せない時、プロデューサーに「天気予備がないんです」と言われたたら、じゃあ、この画は止めましょう、と言う。ドキュメンタリーなのだから。しかし、だいたいは「これ翻に入っていますので撮りましょう」となる。時間が延ばせないのだから要らないと思う。もちろん欲しいけれど撮れないのだ。でも時間制限ある仕事でやっている以上、そういう意見はみな困ることはわかっているので仕事の時は言わない。普段は世離れしているので、時の映像の仕事はそういう状態なのかしら、と実感するシチュエーションだ。撮っていないシーン内容をメモして送ってくるプロデューサーがいた。いろいろ方法はあるんだなと思う。

しかし、自然を撮るだけの話だけではないとも思っている。人間を撮るときも、カメラを抱えて相手をコントロールしようなんて思わない方がいい。結果はすぐわかる。
ATMKの自社プロデューサーは作品制作の時は私を放置する。またどこかでトボトボ探して歩いて撮ってくるだろうと思っているに違いない。それはそれで厳しい。そういう作品は、新幹線も飛行機にも乗れないけれど、そこには豊な時間がある。人や自然から教わることができる。

今年後半はどこの土地へいこう。楽しみだ。