「うぶすなの郷」というそうだ
「富本憲吉」という名をしっかりと確認したのは、英国のV&A博物館で出会ってから。明治生まれの陶芸家で人間国宝である。奈良の地主の家にうまれた富本は、東京美術学校に入学して建築と室内装飾を専攻。在学中にウィリアム・モリスの工芸思想に影響され卒業前にロンドンへ私費留学。帰国後は自宅へ簡易な窯をつくり独学で陶芸を学んで後、東京に行き民藝運動に共感するものちに民藝とは訣別とある。第2次世界大戦終了後は京都へ移り、色絵に加えて金銀を同時に焼き付けるという金銀彩を完成。見事に独自の作陶様式を確立した。そして京都市立美術大学教授を経て人間国宝へ認定。
どうだろう。華麗な作家人生。このように簡易に書かれた説明を読み人物像をイメージすると、正しく人生の選択をして、堂々と生きた作家の王道のような人にみえる。戦争という過酷な時代を生きて作品づくりを続けるという事の大変さを自分は最近理解したばかり。戦争を挟んだ作家経験の持ち主である。
私が見た英国V&Aのケースに並んでいた初期の富本の陶器は質素だった。ささやかな絵が描かれた質素で素朴な椀や皿だった。後期となる東京や京都時代にみせる赤や金にはほど遠い。人の仕事は時代や年齢とともにここまで変わっていくものなのか。変化していく時間に何かあったのだろうかとよこしまな興味をもってしまう。そして後期には初代人間国宝のうちの一人となる。日本に人間国宝というシステムができて初代メンバー。本人だけでなく家族や身内に「人間国宝」というシステムが何か人生の変化をもたらしたかもしれない、と物語を勘ぐってしまう。国宝認定はそのぐらい影響力があったのかもしれないと想像している。
富本が亡くなった後、奈良にある富本の生家は本人の知人により富本記念館となった。江戸時代や大正時代からの建物は展示室となり富本作品が陳列されていた。生まれた家を記念館にするという洒落た豪快な知人がいるのねえと関心していたら、その知人の他界によりまた記念館ごと人の手に渡る。本人はいなくなっても作品を残してしまった以上、それらが以後どこにやられるのかという問題が生じるのか。憧れであった長く残るものは、実はいろいろと難しくもなるんだなあと知る。
webのnewsに「富本憲吉生家」という文字。滞在型の宿泊施設になるのだそう。2017年OPEN。美しく再生された富本の生家。豊な木陰をつくる大きな樹。webは美しく整った風景の写真で一杯。これも時代である。みんなどう見るのだろうか。私なんかの凡人の生家は取り壊されて終了だから何もならないけれど、ここはそういう凡人と違っているがゆえに、ホテルとなるのは寂しいようななんというか。ここを訪れると本人の作品は見る事ができるのだろうか。国宝も大変なんだ。
滞在型宿泊施設は「うぶすなの郷」というそうだ
富本憲吉 生家