「土を喰う日々」(1982年出版)。水上勉が1年12ヶ月を12章に書いた山ぐらし料理と自らのことを書いたエッセイだ。禅宗寺院に小僧として9歳から入り典座なるお台所の係りをした経験は我々に目に見えない世界だ。本孝老師から習った料理法が土を喰うものだったという 。
寺のお台所にて起ったことがらは、幼な心で日常を教わりながら感じ取ったひとつひとつの景色のようなもので、後に作家となりその景色を美しく文章にて我々に見せてくれている。作家はどういう人生を生きてきたのか。土を喰うという題によりそれはまるで仏教の教えのように紐解かれ、小僧が日常からこむつかしい事を教わっていったことのように、水上文学に素人の自分でもその作家の世界観への入り口にたてる気がした。こうした寺暮らしの経験が小説「五番町夕霧桜」「金閣炎上」という大きな世界へ繋がっていったと承知できる。
この本に向かう気持ちの理由は他にもある。出版当時から評判が高かったのだろうか、これまでの自分の人生のとある場面で幾度と登場する珍しい存在なのだ。それこそまだ自分の題が見えず制作助手をしていた頃の築地のあたりの居酒屋で、文壇が料理をする姿に憧れが募ってあろうことにそれがまるで自らの経験のように熱心に本のエピソードを披露していた先輩にも会っているし、映画の構成が思うように進まないため休憩を兼ねて何らかを求め歩いた町で初刷が美しく展示されているのを見つけた。特にこういったことに運を感じたりはしないのだが、その度にそうだったねと忘れかけつつある土の匂いを自分の奥の方に仕舞い込んできた。
作家が暮らしていたのは軽井沢。本には気になる1枚の写真が記載されている。それは水上のハチマキ姿。執筆時はハチマキ姿とどこかで読んで知っていたが、この写真によるとどうやら料理の時もそうらしい。遠方から足を運んだ客には自らの手料理を披露していたし、夜な夜な客の相手をしても深夜にはハチマキを締めながら2階の執筆部屋に戻っていった。そしてまた別の本で読んだことでは、朝になって客がまだ寝ている間に台所で皆の朝食の準備をしていた。その時も扉の向こうにハチマキを締めた後ろ姿が見えたとある。自分が大人になってから某先生に「水上先生はそれはもう女性にモテて」と何度となく伺う事があった。長い前髪をフサッとかき上げる姿がなんともモテポーズだというのだけれど、いやいや先生それは女性をわかっていない。モテの原因は前髪のそれでなくてハチマキ姿だ。
その軽井沢の家を訪ねる運命が何故自分になかったのか。もし編集者に混ざって訪問していたとしたら、無骨にも本人の横にカメラを置き辛気臭いやつだなと嫌われた恐れが多大にある。亡くなって結構な時のたつ大作家が生きてたという現実は自分にとっては宇宙のようなもの。本や人から入手してきた人物像の表現が過去形となり生で捉えられれない現在の自分が大変残念だ。だけど作家は本を残している。水上文学からは事あるたびに土を思い出す存在として自分の人生を助けてもらっている。
今年も正月があけ七草粥の頃になった。1982年当時の作家の山暮らしを冒頭1月から覗いてみたい。今の自分は何を求めているのか。水上のそれは今でも喰えるのか、それとも今だからより喰えるのか。ただ土の匂い溢れる文章に浸り、かさついた現代から抜きん出る自らの本来の故郷を探したい。