「長崎の郵便配達」制作
今は本篇構成中
驚きはいきなりやってくる。ほんの数日前、偶然にも生前の谷口さんの声を録音したデーターが見つかった。その連絡を作業部屋で受けた私は電話を耳にあてながら部屋の中をぐるぐると回り歩ることしかできなかった。ちょうどその直後に連絡がきた友人へ自分は回っていると告白するとそれは熊だと言われた。決して広くはない部屋で積み上がった本の塔を器用に避けながら、興奮した熊は結構な時間を歩き回った。愚劣空間から楽園へ積極的に場面転換させたい無理性な幻想だ。
湧き出す湯気も治まって昨日の夜ふと考えた。
過去の人たちはもういない。私はその事実からただただ逃げていたのではないだろうか。しかも何かでごまかそうと問題の本質から自らを遠ざけてきたのではないか。自分はどこにいるんだろう。私はただありもしない楽園幻想を吐き出す装置を作っているのか。要はそのぐらい安易な装置では一考に未来は見えてこないという事だ。目の前にある関東の青空から時の彼方へ目を細めて見ても現実は見向きもしない。
自分は過去を未来に繋げていなかった。このような重要な事を今になって気づくなんて無能にも程がある。この度の谷口さんの声の発見は果てしなく続いている試合を転換させる重要な計画だ。「2人共にいないこと」が重要だったのだ。実は同じようなことを体験している。一昨年のなんとも企画が進まない時に悩んでうなだれて町を歩いていた。応援をしてくれる方々にはそれはあまり言えもせず気持ちが塞ぎそうな頃、フランスでピーターの声が見つかった。急にスイッチが入り熊になる事例より2年ほど前の話だが、驚きと感謝の気持ちが交差して心ここにあらずな感覚は似たような自己空間を作り、その時はただ目の前にある珈琲の液面を酷なほど見る程度であった。
私は2019年の1月の空を見て、たべものを食べて、友と語り生きている。
自分が「長崎の郵便配達」という映画をつくる理由がわかった。
少しでも前へ進もうと思う。有難うみなさん。
それとは別に…、どうあがいても自分の「現在」は天国チームに操られている気がしてならない。