京都に植物で色を生む染屋がある。初めて植物からの色を見た時は驚いた。その緊張を吹き飛ばす勢いで「何だこりゃ、一体どういう事ですか」と問いただすと工房主は大声で笑った。そして「だって綺麗なんや」と下駄の音に混ざるほどの小さな声でつぶやいた。この下駄姿の工房主が吉岡幸雄さんだった。当時の私はこの方が日本を代表する染織の先生だとは知らなかった。
半年後、カメラを持って工房に通う日々が始まった。どんな映画にしようという計画はなく、ただ目の前に手品のように生まれてくる色を必死で見ていた。見ていると工房の勉強の跡が見え隠れする。そして吉岡さんは早朝から遅くまで本に埋もれた時間を費やしてることもわかった。撮影という「見る」アクションは、私が日本を感じていく目撃時間だった。長く長く目撃を続け、ようやく得体の知れないものが奥の方よりじわじわと脳に伝わっていく。工房は最高の場所だった。そしていつの間にか呼び方も「吉岡さん」から「先生」へと変わっていき、先生の行く色んな土地に撮影ということで付いていった。何処へ行っても先生はその地の知識とご自身の言葉を持っていた。
東京で編集を終えたスタジオから今から京都へ向かうので一緒に映画を見て欲しいと先生に伝えた。日曜日で水の音なく静かな工房の小さな画面で初めての試写。先生は70分強を見終わると「一杯やりに行く」と上着を羽織り、奥で待っていてくれた奥さんに声をかけて工房を出た。いつもの店に座ると「よく出来たな。ムービーはすごいな」とぐい呑を空けた。それからしばらくの時が経った頃、「それで川瀬君、あれは要るんか」と言った。それは先生がインターネットに苦戦するシーンの事だった。
映画「紫」が完成。上映中に裏で待機をしていれば問題のシーンのところで場内から笑い声が聞こえてくる。奥でうつむいて笑っている先生がいた。一番遠慮もなく笑い声が響いたのは東大寺ミュージアムでの上映会。上映後の講演中に先生は、客席にいた福田先生をお呼びした。やや頬を赤らめたお二人が舞台に並んだ。変な距離を保って。その後、手作り映画はゆっくりと各地へと上映が進んだ。
時は過ぎ、私は各地でうっすら残る文化を映す旅をしたいと思うようになった。それはかつて実存してたある雑誌のように考えていると先生に相談すると、強い口調で「すぐやれ」と言う。しかもその雑誌の全バックナンバーを持っているから家に送ると言い出した。先生にこの仕事の編集長や監修に就いて欲しいと伝えると勢いよく快諾してくれた。その場で「編集長」と呼んでみたら顔つきが変わった。先生の根っこが見えた気がした。
「お前、はようやれ」9月の電話ではいつも以上に叱られた。仕事が遅れている。「川瀬君」から「お前」に格上げになっている。編集長に叱られて顔がひきつったまま電話を切った。この仕事に名をつけてくださいと言いかけて言わなかった。とっさに次に会って相談しようと思ってしまった。
それから2週間、染色史家 吉岡幸雄は亡くなった。
辛気臭いのが嫌いな恩師はサッと逝ってしまった。
今、吉岡幸雄が編集長を努めた本を工房からお借りしている。染め仕事だけでも驚愕だというのに、この本を作るために一体何年かけて日本を縦断したのか、執念ありすぎる仕事を見て震える思いだ。辛気臭いのが嫌いな癖にしぶとい仕事ばかりするんだと、これは一体どういう事かと、できれば本人に詰め寄りたい。頁をめくって見つけた小さな写真に、手作業するお婆ちゃんの目の高さに座って取材をしている若かりし吉岡幸雄が写っていた。
自然が好きで、酒が好きで、何事も豪快だった。行動はまったくの規格外。
人々に力ある日本の色を魅せ、現代人におおらかな自信を与えた。
自然災害が続く日本を憂いても、それでもちっとも日本を諦めていなかった。
私は「紫」から始まって、その後も仕事を教わった。
先生がかつて珍しく山のねきをよじ登って何やら掘ってきたので見ていたら、手にしていたそれは天然茜のひとかぶだった。大事そうに紙コップに入れて持ち帰る姿を覚えている。今でもそんな風に、ふらっとどこかの地を歩いている気がしてならない。
「紫」2012年
https://www.youtube.com/watch?v=SoGwk7OQ-DM