魯山人窯と薩摩琵琶 

魯山人が使用していた窯にて現在の持ち主様のお話と琵琶を聴くという会に招待いただいた。

初夏に輝く樹々の中にひっそりと佇む窯。自然と同調する日本人の暮らしを再発見するかのよう。登り窯に使われて雑多におかれた道具たち。いまも窯は活きている。

色んな本より魯山人は大胆だと知ってはいた。よって私も彼は貪欲でこだわりが強い印象であるとの考えを持っていた。実際に見学をさえていただくと、やはり自分の大きなイメージを実行した人間だった。屋敷や窯、茶室や客間など、すべてのつくりが彼なのだという大きな大きな人物像が溢れだした。現代でいう完璧なブランディングであろうか。客間に著名文化人が集いワイワイと語らう事を最も大事につくられた様子にも非常に興味をもつ。

いまの持ち主様の現時代でのこの維持はそれはそれは大変なことだと思う。強い「想い」がなければ。魯山人だけでなく、いまの持ち主様も美しさを創造しているのだという事は十分に理解できた。素晴らしい事。…にしても、なんと私は小者だろうか。

その客間で「薩摩琵琶」を聴かせていただく。
琵琶演奏・塩高和之さんにも初めてお目にかかれる機会となった。「薩摩琵琶」は初めてだった。贅沢にも塩高さんに直接説明いただく。演奏している姿の凛々しいこと、桑の木でできたその薩摩琵琶のフォルムの美しいこと、弦である黄色い絹糸の綺麗なこと、黄楊の撥の艶やかなこと。ひとつひとつが興味深い。シルクロードをへて奈良の正倉院に保管されたの雅楽琵琶は見ていたけれども、この薩摩琵琶とは全く違うものだそうだ。薩摩琵琶がいくぶん太くしぶめの様子に思える。簡単に伝え書けないような音色を出す。気持ちが晴れる。
いまや日本で琵琶をつくっているのは1組の親子職人だけなんだそう。この事実にとても驚く。ここでも「最後」かと想う。永い時代をつちかってきたいいものが無くなっていく、その末端ぎりぎりの時代に私たちは生きているのか。ぎりぎりすぎて鈍感な普段の生活では気がつくはずもない。

魯山人が亡くなった時、屋敷も窯もここのすべてが志ある富豪により求められ、窯は繋がり現代に生きたそう。今の時代この話は幻想だろうか。いま同じ境地になっても繋ぐ人材はいるだろうか。同じく別の世界に気をとられ、この地に何千年と育ってきたものを知る時間ができなくなっている。それだけ現代人は忙しい。音楽を奏でる楽器をつくることができなければ演奏もできず音楽も絶える。フジロックもいいけれど、ボカロもいいけれど、しかししかし。知らないだけだと思うだがどうだろうか。こんなに興味深いことはない。

ただ「知らない」という鈍感さ。それだけだと思うのだが。

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