ある日の朝、私は友と辺野古へ車を走らせた。毎朝Twitterで確認する事にしている今日の辺野古事情を自分の目で確認するため。素晴らしく光輝く晴天の下、画面で見慣れたゲートやテントが現れた。静かな日だった。機動隊2人がゲートの両脇に立ち向かいのテントには5名ぐらいの市民の姿。てぬぐいを頭にかぶりプラカードを手に持ったおばあが1人、通りすぎるすべての車に手を降っている。
反対派の市民たちの戦いの姿はいろいろな展示物で表現されている。テントをめくってそれらを眺めている私にジャーナリストがカメラを向ける。「どこから?」「東京から。あなたは?」「フランスから」
辺野古の小さな集落には共同売店と小さなイタリアンレストランがあった。レストランは閉まっていたけれど売店は開いていた。よそ者の私たちにお母さんは優しくしてくれた。集落の中をすこし散歩してみたが週末だというのにとても静かだった。英語の看板があった。どこかの町と同じように猫がこちらをみて逃げていく。家の前に花は咲き、生活している日常がある。住人たちによる週末の草刈りの集まりが行われて、数名がこっちをみている。おばさんが寄ってきて「がんばってね」と私の腕をぽんぽんと叩いていった。
沖縄で広い大地を感じる時、暮らす人々の家並近くを散歩したり、蒼い海を遠くに眺める高台に立った時など、心の中で「この地で暮らせばずっと観てられるんだ」と妄想がはじまる。朝の目覚めや暮らしを想像する。それは決して悪くない生活だ。これまでの自分では体験できない人生を活きる事ができるのではないかと夢だけが膨らむ。森から聞こえる鳥たちのさえずり、市場で感じるひとたちの生業、みるものすべてに自分の姿を入れ込んでみる。沖縄を感じた人間は、きっとこんな思いを勝手にしてるのではないか。
そして島にいる滞在時間に出会った人の顔を思い出したり、食べたり見たものが頭をぐるぐるしながら、それは無口となって帰路となる那覇空港へと向かう。自分の実行力の希薄さで切なく酸っぱい寂しさでいっぱになる。それがたぶん、日本本土へ帰宅する人たちの「沖縄体験」でしょう。
ANA機内誌「翼の王国」吉田修一氏・空の冒険「オキナワノソラ」を読み私は深くため息をついた。どんぴしゃだ。苦しい。笑